蔵王町平沢の水神社に湧き出でる御神水。ご利益(ごりやく)を感じてか沢山の方が訪れます。
ご利益を得たい方ばかりではないかもしれませんが、ここは境内、また神話と共に或る聖域です。木漏れ日から光が差して、水瓶が煌々と光ってますね、ありがたやありがたや。
さてさて。
ご利益も相応のことを必要とされるのだと思います。神仏もそう都合よく願いばかりを聴いてはくれますまい、と。
此の世あの世に関わらず、全ての事象は不思議なほどに鏡像となります。明暗、陰陽、対反するものを合わせると、不思議に平らになります。
子どもの頃、“影踏み”をして遊びませんでしたか?(壮年でも青年の頃でも構いませんが)
影は自分の足元から伸び、つかもうと思ってもつかめず、それどころか寄れば逃げる、逸らせば近寄る、というものです。“光源との位置関係”の話しと感じられるのであれば、これより申すことはありません。
御神水を頂きにあがる際は、鳥居をくぐり少しの石段を登り本堂へ御参りをする。
自らの幸せを願えば願うほど、幸せは遠のきます。他人の幸せを願えば願うほど、幸せは寄って来ます。また、他人が幸せに見えれば見えるほど自分が惨めに見えてします。
それは“影踏み”、“鏡の法則”、道理摂理真理なのでしょう。それは鏡。見える姿は反対の自分を映し出します。
門をくぐらば笠を脱ぐ。
無心に膝を付いて頭を下げれば、不思議に手が届くものなのです。それほどに御利益は身近にあり気付き難いものなのでしょう。