(読売新聞 - 10月25日 08:55)
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卑怯な育ちかたをした者の劣等感が、優しい心の持ち主を追い詰める。
「イジメ」が発生してしまうことに、イジメる側とイジメられる側の双方に、問題「は」、ある。
だけど、原因は、イジメる方にある。
イジメられる側、からかわれる側の子が、いかに意地悪をされようが叩かれようが、交わし続けていたならば・・・、なんてことは出来ようがない。誰でも掛かる火の粉は払いたくなるだろう。それは攻撃や刺激に対する正常な反応だ。
しかし、イジメる側というのは、それこそ執拗に追い掛けて追い掛けて、手を変え品を変え、いかにしてイジメによって自己の不満を解消し、日頃の自己阻害という被害者意識を埋めようと病的に執着する。
自己境界という、他人は他人、自分は自分という境界作りが互いに欠けている。
それは子どもならば無理はなく、そのためには周りの大人が守ってやらなきゃならない。(学校にクレーム付けるだけが守る手段じゃない)
奇妙な感じをされるかもしれないが、誰かが持ってるブランド品を次から次へと際限なく欲しがったり、トレンドリーダーになりたがったりするのは、他者に対して、あたかもそれが自己の優位性の証だと言わんばかりの虚栄心、また、幼少期から積み重なれた潜在的な孤独感から逃れるための防衛本能からくるもので、イジメの心理的な構造が、大人になってもスライドしている現れ。
足が遅いのに、早く走りたいと思えば劣等感を抱く。遊びたいのに良い成績を取れば「親が喜ぶ」と、自分の本当にやりたいことが、他人を喜ばせることになってしまう。自己実現に「他人が必要」な他人依存の状態だ。
それがひとたび満たされないと知るやいなや、途端に他人を妬み羨み陥れ、足を引っ張り不幸を願うようになる。
これは、実はその者自身が自己にかけている、一生解けない呪いなのだ。
自分に欠けているものを「すなおに受け入れる。」ための教育をする。
それは教科書や参考書を与えても、決して培われない。
泥んこ遊びをすることから学べるんだ。