所用を済ませて車に乗り込むと、周りをパトカーや警官に囲まれて身動きがとれず・・・。KHB東日本放送のK記者とカメラがズームイン・・・あ、局違い(笑)
高校生2人が、近所のドラッグストアへ押し入り、店員さんの首に包丁を突きつけて強盗。彼の自宅と薬店は、自転車で5分くらい。たぶん、この子、中学生時代には学園祭や体育祭で顔を見ている子。なんてこった。
“ドラッグストアに強盗、高校生2人逮捕”
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1452074&media_id=88ニュース動画
http://www.news24.jp/nnn/news873231.html・・・
“薪を拾おう”
その“薪を拾おう”という活動の意味は、自分がいかにして“生かされているのか”を知るきっかけにして欲しいからです。
すべてが“そう”だとは言わない。でも、なんか変な偏な世の中になっているのは、生活の中で、薪を拾わなくなった頃からだと思うから。
学校から家に帰ってくると、冷蔵庫があって、腹が空いていれば、勝手に食べていい。腹を満たしてくれるものは冷蔵庫、またはコンビニやスーパーマーケット。
そんな生活が生まれた頃(もの心がつく頃)から続いていると、腹が減ったらコンビニが冷蔵庫代わりで、代金を払う意思も無いし、屋外も自分の部屋も境が無いから、コンビニの前でスウェット(パジャマ)でカップラーメンをすすり、食べカスもそそまま、ゴミ箱にも片付けない。
僕が子どもの頃、薪を拾って夕飯の炊事の手伝いをしないと、ご飯が食べられない友だちが居た。
家庭という社会が、その友だちが薪を拾ったり、妹の面倒を見たりして、その子がその“社会の役割”を果たさないと、生きられない社会だった。
自分が生きるためには、社会から託された役割を果たさなければならない。
役割を果たして、義務を果たして、はじめて社会で生きる権利が得られる。
ゲームのように仮想の世界を作り上げ、その汚い手に握られたお金。
100円玉、千円札、1万円札を奪われた人が、どれだけの苦労をして手にした浄財なのか。
生活を切り詰めて作った“お金”。
どれだけ大変なのか、知りもしないのだろう。
小説に描かれている犯罪者の家族と、刑務所獄中の受刑者の温度差こそが、罪を犯す人と罪を犯さない人の“感覚”の違いだど思います。考え方が違う。気付かない。この小説が、全世代の犯罪の抑止に繋がればと思います。
山田孝之さん主演の映画「手紙」。
罪を犯すということが、どのようなことなのか。
是非、観て下さい。
許可を受けての上でだけど、学校の課外授業で上映しても、この映画は良いと思う。