またまた妙チクリンなことを言い出した、なぁ〜んて言わなさんな(笑)。ほぼ毎日ご訪問頂いているあなた様へ、「得るもの、失うもの」について、記事を書きたいと思います。
「得るもの、失うもの」と言いますと、貴方はどんなものをそれぞれに思い浮かべますか?
そうですね、先ずは「お金」について、始めましょうか(笑)
働いて時間を(勿論労力も)提供することによってお給料がもらえるわけですが、ある意味、自分の時間を失うことによって、お金が得られることに言い換えられます。
働く人は、時間を失い、お金を得る。勿論、働くことの悦びやスキル、経験値といったお金で買えない財産も得ていますが、話の流れが作れないので、そのあたりはスルーして下さいね。
買う側(雇う側)は、自分の時間を使わない(得る)代わりに、お金を失います。手元にお金は無くなりますが、商品や成果物は得られます。スーパーマーケットで買い物をするのも同じです。雇用に関して言えば、労働者を雇うことで、会社は一人の力量では出来ない生産力で、給与の何倍もの利益が得られます。
少し、慣れましたか?(笑)
天秤の両端にあるようなイメージを持って下さいね(笑)
質感は違いますが、ボールペンや鉛筆の芯は、文字や絵を残す代わりに減ってしまいます。
地球の資源、例えば石油を使うことによって便利さを得られますが、資源そのものや健康的な環境を失ってしまいます。
なんだか、「代償」という言葉が、合うような感じさえしてきます。
自分が出来ないことをやってもらう、そのことの交換、といってはなんですが、エネルギー普遍の原則、につながるような、一体の物を感じます。
地球の地下資源を全て使い果たしても、宇宙に浮かぶ地球の重さは変わりません。大干魃で海洋までもが干上がっても、地球の重さは変わらないのです。
さてと、これまでの内容で足りているかは分かりませんが、ここまでは事供、目で見て触れられるものでした。次は理供、見たり触れたり出来ない部分について、話をします。
「お金」と言いますと、よく「金持ちは人間の心を失う」、などと言うのもあります。全ての人がそうとは限りませんが、人の感情を逆撫でしたり、持ち物を自慢して、周囲が滑稽に思ったり失笑しているのに、自分は人気者だと勘違いする方も居られます。
物質的には豊かでも、精神的には非常に貧しい状態ですが、これもちゃんとバランスがとれています。
裸の王様は、国王の地位を得ていますが、国一番の痛々しい人です。
さてと。
今、私は病院のベッドの上から携帯電話を使ってこの記事を書いています。
昨日から大部屋に移り、昨晩は投薬の効き目もあって寝れたのですが、今晩は寝るタイミングを逸してしまい・・(笑)寝れなくなってしまいました。
明日は大事な会議の予定、またその後は週末土曜日のイベントに向けてジイジ・バアバ・ベイビドコモダケも作らねばなりませんでした(汗)
事象というのは立ち位置を変えてみると、いろんな理象が思い描けるものです。
もし、私が追突した側だったなら。。。
相手が死ぬような事故にならずに済ませ、助けて下さったと感謝します。巻き添えも出さずに今いることに感謝します。これまでの考え方、物事の捉え方を改め、やりなおすチャンスをいただけたことに感謝します。
やり直すチャンスを頂けないのは、これ以上に不幸なことはありません。そのチャンスを知りながら逃すのも人生にとって大変な損失です。
追突された私が今、思っているのは、
彼が、ほかの誰かを傷つける前に、私に出合い仕合わせて下さいましたことに感謝しています。
そして私にも、気付きを与えて下さいましたことに感謝します。ありがとうございます。
普通には成りがたく得難いものだから、
「有り難う」と書くのです。
口で理想や教訓を語るのは、誰でもできます。
まして、本心を曇りで覆い隠し、良い人ぶって社交的な振る舞いをし、偽善者になることほど簡単な道はありません。
「希望とは、困難を克服した者の背中にみえるコトバ」
彼は飲酒運転をしていました。30kmに渡って私を追い回し、最後は私の車に追突して停車。
果たして、彼は私に何を望み、何を得て、何を失ったのでしょうか。
そして、私も何を得て何を失ったのでしょうか。
もう一度、ハンドルを握る機会を授かったら、事故を教訓に、模範となれるように頑張ってもらいたい。
宮城県では、数年前に、明け方まで国分町で飲酒していたドライバーが、通学途中の高校生の列に突っ込み、多数の死傷者を出しています。
どんなことでも、過ちを犯してしまっても、繰り返さない勇気を持ってください。
そう誓って、自戒精進、正直に生きましょう。
そしてもうひとつ。
面白おかしく話す貴方は、何を得て、何を失っていますか( ̄∇+ ̄)
得るもの、失うもの。
自分が幸せになりたいと思ったら、他人の幸せを一番に願いなさい。
他人に向けた三毒は、自分への呪いとなって必ず還ってきますからね。
内田樹さんの「邪悪なものの鎮めかた」は、自らの心に巣くい、人間である限り消えることの無い夜叉を鎮める知恵が書かれています。
あぁ、そうそう、言い忘れたことが。
神社ではお賽銭、お寺さんでは浄財として御参りの際に御布施をしますが、あれもある意味、「得るもの、失うもの」です。
要するに、神仏さまも勝手都合の良いことは、聞き入れて下さらない、ということ。地獄の沙汰も金次第、とは、金で便宜を図ってもらおう、というのではなく、願い事の代償として、傷み(苦行)や欲を捨てることを表していると、私は考えます。お百度参りや鳥居建立の寄金もそうですね。その心構えが普段の生活に出るから、福しい方は益々福しく、そうでない方は益々三毒に冒されて苦しみ生かねばならなくなるのです。
不幸だから神頼みして助かろう、じゃなくって、不信心だから心底からの幸せにはなれなかったのですよ。