仙台から県道村田線で蔵王町を目指すこと車で40分。村田町を抜けて蔵王町の広々とした水田を抜けると産直市場みんな野があります。
先週は、集落の山の手にある達磨堂で、安産祈願の女人講"だるま講祭典”がありました。
七五三では神社で御祓い、盆はお寺で墓参り、クリスマスでは賛美歌を歌い、大晦日には寺で除夜の鐘を突く。日本人の自分に良いというものを自由に取り込む柔軟な精神は、今も昔も変わらずにあるように思います(笑)。“和”ですねぇ〜、しみじみ。ガツガツしたものとは別世界です。
達磨講祭典の日は、丁度本山で不動法伝授があったので行きませんでしたが、大勢の参詣者でにぎわっていたようです。
僕が御修行しておりますのは修験道、山中へ分け入り修行する山伏です。神道の祝詞もあげれば、仏門の御経も唱えます。護摩壇で護摩を焚き、加持祈祷を行っています。明治維新までの1300年は神仏習合の時代で、今のように神社と寺は分けられておりませんでした。時の政令、神仏分離、廃仏毀釈、修験禁止令によって、この近代140年は流れています。
修験禁止、廃仏毀釈により蔵王修験も他に漏れず、修験道の御本尊は蔵王大権現さま。刈田岳山頂に分祀された蔵王権現さまも法難の時代をむかえます。蔵王の蔵王権現さまは天水分神(あめのみくまり)・国水分神(くにのみくまり)となり神社に奉られます。
修験道としては受け継ぐ方は居なくなったようで・・・(たぶん、居らしましたら申し訳ありません、お探し申し上げております)、蔵王修験は絶えてしまったのでしょうか。山形の上山城には“蔵王修験”の資料館があります。
先日いただいたお話しを受けて、様々なことを考えておりまして・・・。
山の神は女性神。そのため、古く昔は霊峰の多くが女人禁制となっていて、女性が山へ入ることで山の神が気分を悪くされることの無いようにしていました。蔵王も同じく女人禁制の霊峰でありました。
すぐ隣にある平沢の長命水“水神社”には、罔象女命(みずはのめみこと)が奉られています。
達磨講は女人講・・・。ん・・・。
御神体は女形で、男形は供物なのではないかと・・・。弥陀の杉の打ち枝を用いて男形の道祖神であります。
さてさてさてさてさて。
日記タイトルの“おむすびころりん”
僕は、つとめて“おにぎり”とは言いません。鬼斬り・・・。
お結び≒ご縁結び、と・・・(*^^*)子宝は御縁結びに他なりませんでしょう。
さて、御神体の形容から真面目なお話を。
昔ばなしの“おむすびころりん”。
気の良いお爺さんが昼飯を摂ろうと切り株に腰掛けて弁当を開きますと、おむすびがコロンコロンと木の根元の穴めがけて転げ落ち、中ではネズミが団子ツキ。ペタンペッタン・・・。おじいさんはネズミの差し出した2つの葛篭のうち、小さい葛篭を頂いて持ち帰ると大判小判の宝物が入っていました。それを聞きつけた残念なおじいさん、ネズミの元へ行くとネコの真似をしてネズミを脅かし、持ち帰った大きな葛篭からは魑魅魍魎の鬼が飛び出てきましたとさ。(諸説あり)
木の根元や“やまおやじ”は、室(むろ)や虚(うろ)などという空洞になっていることが多く、方々で御神木として崇められています。
物語を読みかえると・・・
御神木にお供えをして三禮を行い、子宝に恵まれる様を描写してあるようです。子宝、子孫繁栄の象徴であるネズミが使いとして願いを叶えてくださる。
この御神体は児を宿して下さるよう、安産を成して下さるように祈念したいと考えております。護摩木に願意を添えて精一杯の御祈祷をさせていただきます。
“おむすび”という言葉は、天地万物を生み出す神霊“産霊(うむすび)神”に通じる感じがします。
先達が旅をしながらの托鉢で、門前にて念仏を唱えて一宿一飯の恩義をいただき、家人の身体健全、開運隆昌を祈念していたように・・・。
“おむすび”が結ぶご縁、命をつなぐ御結び。結縁。
太陽、月、空、星、大地、海、森、この身を大地に伏し自然の一部であることを感謝します。
毎日応援していただき、ありがとうございます。
僕には何もできませんが、貴方様のこと思い、御健康と開運隆昌を常に祈念いたしております。