1月14日は、どんと祭の火守り役でございます。私の属する仙台市青葉消防団中央分団は、ほかに瀧澤神社や二十三間堂と警戒部署があります。
優しくて力持ち、独身の哲ちゃん
(良縁待ち受け中)各団員はその守り処を毎年適時巡回交代しているところですが、私は指揮官の分団長も意図せずにしてか、三年間この柳町大日堂の大日如来さまの守りを貫徹して命じてくださります。大日如来さまは私の生まれ年申年の御本尊です。
信仰に厚い町は不思議に栄えています。“不思議”とは言いましたが何も不思議ではないのだと思いますね。
参拝に訪れて大日堂の山門をくぐる際に一礼をし、山門を出る際も一礼をする人々が、この町には何と多いことか。その信心は平素の日常生活の中から活きていることでしょう。
“町が栄える”ということは、ひとり誰かが何かをしたからといって栄えるものでもありませんね。お一人ひとりの信心からなる一挙手一投足、立ち振る舞いから変わって行きます。それこそ“履物を揃える”ことの大切さから始まるような小さくて大きなことです。
正月飾りを炎の中へと投げ入れ、一年の息災を祈られている姿から、自らに向かい合う人々の心が観えて来る様な気がします。
この仙台柳町大日堂は、未年申年の一代守り本尊である大日如来さまが御本尊。私は申年生まれ。歴史をたどりますと、この界隈は伊達政宗公に従えて山形米沢から移住してきた町人町で、昔の町名は御譜代町といいました。
現町名の柳町となったのは、1601年(慶長6年)の正月に、伊達政宗の行なった町割り(現代でいうところの区画整理事業)で使用した“縄”の一部をこの場所に埋めて、城下鎮護のために堂を建立して大日如来さまを安置したことからといいます。大規模な護摩供が行なわれたのでしょうね。
関わる余談ですが、昔は土地の測量に“縄”を使っていました。土地の面積に応じて年貢が定められるため、“縄伸び・縄縮み”で税金を多く取ろう(役人)、安く済まそう(小作人)の鬩ぎ合いがありました。
この柳町大日堂は別当を柳生山教楽院と号し、京都醍醐の三宝院に属する当山派修験道の山伏寺です。
さてさて。
人生の御縁とは、まったく不思議なものです。そして“仕合せ”の連続であります。
“仕合せ”とは他人との糸を互いに紡ぎ合い、一枚の布切れになることの例えでもあると思います。実に難しいことです。
その様子は、ぅん、こなれた言い方をするとハワイアンキルトパッチワークのような・・・(汗)こなれすぎか。さまざまな色や形容が入り交じり合い1枚の布をこさえる、曼荼羅の世界・・・(汗)違うか。
唯只管に真の理を導く理の道に理の由をなぞらえる。巧く云えたか?(笑)
師僧は“得がたい事に気付くかは本人次第”と御教えくださいます。御縁に気付かず通り過ぎるもまた由。貪瞋痴の三毒を燃してまた安息の一年となりましょう。
色即是空 空即是色。仏を見奉らんとせば、質実柔軟にして不惜身命の行をせよ。難しいことです。
おー。
そぉーもそも、境内に犬を入れるのは如何なものでしょうか(汗)
あはっ、“未”も“申”も、“犬”には追われるものでして・・・。