先々週、やっと宮城県でもTVチャンピォンの後継番組、チャンピォンズの放送がありました。すごかった〜。
岩手県陸前高田市の“気仙杉”を助けるために、3人のチャンピォンが東京都内の創立95周年を迎える小学校の記念モニュメントを作られていましたね。
伴塾長の知恵を司る羊とヤギの特大ベンチ。僕は初めて拝見した知恵の輪の山本さん。豪華なログウサギ小屋の栗田師匠。すごかった〜。
コンクリートと鉄で出来た日常に現れた、樹から材へと生まれ変わった気仙杉は、満面の笑顔の子どもたちに最高のプレゼントでした。
人はよく“樹って良いよね、温もりがあるよね”って言うけど、ほんとそう思う。
樹は伐られたあとに材となり、人と共に活かされる道がある。
現場に立ち会った子どもたちは、丸太が彫られる姿を見て、やり直しの利かない真剣な作業から、大切なものを学んでいけるんだと思う。
地球環境の保全のために様々なものがリサイクルできるようになってきた。・・・ペット犬やクローン牛とかも、命のリサイクルなんだろうか。なんか死んでも安心、バックアップビーカーがあるからネ。なのかな。
便利さや豊かさっていうのは、使える分野と使っちゃいけない分野があるっていうか。あ、クローン技術を言っているんじゃないよ。
それを学べるのが、小学生のカエル遊びだったり砂山のおままごと遊びとか。人間も含めて、生き物は命が絶たれると、生き還らないんだよ、存在を認めて大切にしようね、って、子供向けか。
なんか記事を結べないなぁ。
失敗できることに素晴らしさがあり、価値があり、心があり、感情が沸いて来る。っていうか。
人間も部品化されて・・・、と言っては問題か。
ん〜、結べない。
どうしようか。
書いちゃおうか。
ん〜、人間、というか、生き物もそうだけど、空気や水さえも個々の存在が部品化されてやいまいか。ってことを書きたいのかな。いや、ちょっと違う。
ア・ナ・タの代わりなんか、いっくらでも居る。いつでもその首は挿げ替えられる。と、いう自己の被存在観。大気汚染で息苦しくなったら液体酸素で暮らせばいい、とか、太陽が無くなったら自然色発光のダイオードで代用すればいいとか・・・。その開発自体はとっても良いことなんだけど、何かがダメになったり、使えネーェとなっても控えがあるから安心ルンルン、っていう感じ、っていうか。
“あ〜ぁ、壊れちゃった。ポイッ。新しいの買って来よう”って感じ。
でも、忘れちゃいけないのは、そういうのもひっくるめて自分が生きている社会が出来ているって事。ひとつの方向しかない社会なんてありえない。問題は、その存在をしっかりと認識できるかどうか。
ん〜、感情の移入・・・、ちょっと違うか。ただ夢中になれるってことじゃなくて、“シラーッ”っとしない、というか、感情をちゃんと表に出せるか、というか。
なんだ。まとまらねー。雑記帳か。
またこんなことを書いてると炎上しちゃうんだよな。